フランスの詩人ヴェルレーヌ誕生 ― 1844年3月30日
フランスの詩人、ヴェルレーヌが生まれた日(1844年)。ボードレールからの流れを汲みながら発展したフランス詩の中でも象徴派に分類され、ランボー、マラルメらと共に19世紀末の文壇を牽引した一人である。ヴェルレーヌの詩にはフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらが曲をつけている。
名歌曲が生まれる源泉は、作曲家の創作意欲をかきたてる優れた詩にある。19世紀以降、ドイツにもシューベルトなどに名歌を書かせたゲーテなどの詩人たちがいたが、フランスはまさに大詩人の宝庫であった。今日が誕生日のポール・マリー・ヴェルレーヌ(1844〜1896)も歌曲に創作に貢献した一人だ。彼の詩をもとにフォーレ、ラヴェルがかなりの歌を書いたが、ドビュッシー作品が最も知られている。
フランス語歌曲集の代表作にも挙げられる《忘れられた小唄》(1888年完成)は、ヴェルレーヌの詩集『言葉なき恋歌』のなかの詩による6つの歌曲で、《牧神の午後への前奏曲》で印象主義音楽の確立を高らかに告げたドビュッシー初期の代表作の一つ。その第2曲「巷に雨の降るごとく」は、堀口大學の名訳で日本人にも愛された名作だ。ピアノによるしとしとと降る雨の描写を背景に、若者のメランコリーがうたわれる。
巷に雨の降るごとく われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る この悲しみは何やらん?
やるせなき心のために おお、雨の歌よ!
やさしき雨の響きは 地上にも屋上にも!
消えも入りなん心の奥に ゆえなきに雨は涙す。
何事ぞ! 裏切りもなきにあらずや?
この喪そのゆえの知られず。
ゆえしれぬかなしみぞ げにこよなくも堪えがたし。
恋もなく恨みもなきに わが心かくもかなし。
通販レコードのご案内数多くあるドビュッシー歌曲の大半は、二人の詩人ボードレールとヴェルレーヌの詩に作曲されている。
多くの音楽家たちがヴェルレーヌの素晴らしい詩に魅了されてきた。《忘れられた小唄》は、ローマ滞在中の1886年から88年にかけて書かれた、ドビュッシー初期の代表的な歌曲集。ヴェルレーヌの詩集『言葉のないロマンス』から6編がとられている。いずれも言葉な繊細なニュアンスの音楽化を試みて、見事な効果をあげている。ヴェルレーヌの微妙・繊細な言葉に音楽を付すという作業を通して、ドビュッシーは言葉と音楽との関係を究めていった。
フォーレの歌の澄んだ優雅さが、モーツァルトの最も美しいアリアを思い起こさせるとするなら、その叙情性はシューマンのリートに匹敵するだろう。
こう表現したのはフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル(1875ー1937年)です。パリ国立高等音楽院時代の師であったこともあり、ラヴェルはフォーレ(1845ー1925年)の歌曲を高く評価していました。
おそらく日本ではドイツ音楽=クラシック音楽、というくらいドイツ・オーストリア系の音楽家の存在が大きいのだと思います。ドイツ系の音楽については、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなど、さほど音楽に馴染みのない人でも名前くらい知っています。ブラームス、シューマン、ワーグナーあたりの音楽家も、それなりに知られているでしょう。ではグノー、サン=サーンス、ドビュッシー、あるいはラヴェルやサティはどうなのか。フランス近代音楽の巨匠たちです。フランス音楽というのは、どのような受けとめ方をされているのでしょうか。
ラヴェルから見たフォーレに対する世の中の評価は「このフランスの偉大な作曲家に対して、およそ釣り合っていない」という思いがあったようです。中でも歌曲に対するラヴェルの評価は高く、以下のように書いています。
フォーレの歌曲を研究することなしに、この作曲家の真価を理解することは不可能である。彼の歌曲は、ドイツのリートが支配していたヨーロッパの歌曲に、フランス音楽の価値を示すものだった。
フランス音楽はドイツ・オーストリア音楽と比べると、どこか柔らかでちょっと気まぐれ、そして軽やかな印象があるように思います。またエスプリや品のいい官能も感じられます。そんなフランス音楽の中でも歌曲は、ドイツのリートやイタリア歌曲とともに、魅力あふれる聴く楽しみの多いジャンルかもしれません。

フランス歌曲の歴史を変えた、永遠の名曲。レジーヌ・クレスパン(1927-2007)の名唱が遺されたのは本当に幸せだ。《月の光》はフォーレを代表する歌曲の一つで、ドビュッシーの〈月の光〉と同じくヴェルレーヌの詩に着想を得た作品。前奏からピアノ小品とも呼べる魅惑的で豊かな情感に満ちている。

圧倒的な美声と驚異的な技巧を兼備したソプラノ、エディタ・グルベローヴァ。張りのあるグルベローヴァの歌う、アクロバティックな歌唱は聴きものだ。ブラチスラヴァに生まれ、22歳で地元の歌劇場にロッシーニ《セヴィリアの理髪師》ロジーナ役でデビュー。2年後の1970年にウィーン国立歌劇場と契約し《魔笛》の夜の女王役に抜擢、1973年にはグラインドボーン音楽祭においても同役で好評を博しました。1980年には初来日し、リヒャルト・シュトラウスの《ナクソス島のアリアドネ》ツェルビネッタ役での超絶的な歌唱で瞬く間に人気を獲得、以降、21世紀に至るまで来日を重ね、円熟の歌声を披露しています。
Deutsche Grammophon
2012-04-26
Cloude Achille Debussy
伝統から外れた音階と半音階の用い方から19世紀後半から20世紀初頭にかけてジャズ、ミニマル・ミュージック、ポップスに至るまで幅広い音楽ジャンルに最も影響力を持った作曲家
(1862.8.22 〜 1918.3.25、フランス)
フランス印象主義音楽の巨匠。13歳でパリ音楽院に入学、22歳でローマ大賞を得てローマに留学した。ロシア音楽の特にムソルグスキーから大きな影響を受けた。彼は音楽家としてたぐいまれな「耳」に恵まれていたが、後期ロマン派の伝統的な和声にあきたらず、模索を重ねていくうちに全音音階に基づく彼独特の和声体系を生み出し、親交のあった詩人マラルメらの印象主義の思想から啓示を受けた、“音楽の印象主義”というべき手法をうちたてた。1892年に作曲した交響詩の「牧神の午後への前奏曲」は印象主義の作風の最初の作品であると同時に、その特色のよくあらわれた作品として知られている。そのほかの主要作品には「ベルガマスク組曲」、「前奏曲」、「映像」、「版画」、「夜想曲」、「海」、「イベリア」、歌劇「ペレアスとメリザンド」などがある。
ロシア貴族趣味を継承して滲んだ音色を嫌った
ドビュッシーは1862年にフランスで生まれ、5歳のときパリへ移った。母親は子供を愛さず、自分の生活を重視する性格だったため、伯母の元ですごし、そのとき初めてピアノのレッスンを受けた。パリ音楽院在学中から様々な人の伴奏者、ピアノの家庭教師をして生活費を稼いだが、特にチャイコフスキーのパトロンとして有名なフォン・メック夫人に1880年から仕え、様々な国をまわった。
また、この頃からムソルグスキーの自由さ、繊細に内面を語る楽曲に尊敬と愛着を持ち始めた。また、ローマ大賞の副賞である、イタリアのヴィラ・メディチへの留学生活にはあまり気が乗らず、2年間で切り上げた。
その後ワーグナーに傾倒するが、すぐに反対の立場になった。しかし、多くの資料は、彼の反対はポーズであったとしている。ドビュッシーの女性関係は、まず1881年アマチュア歌手であるヴァニエ夫人への愛から20曲以上献呈した。その中には「亜麻色の髪の乙女」も入っている。
次に1888年、ガブリエルデュポン(ギャビー・レリー)と同棲をはじめたが、10年以上の同棲のあとに彼女を捨て、リリー・テクシェと結婚した。このとき多くの友人は批判したが、彼は自らの幸せのため、友人、恋人に冷酷にすることもいとわなかった。しかし、リリーとの結婚生活は6年しか続かなかった。
彼は自身の生徒の母親のエンマ・バルダック夫人と恋に落ち、駆け落ちをして彼女との間に娘を1人もうけた。彼女はクロード・エマという名で、愛称をシュウシュウ(キャベツという意味)という。彼女の前でアルフレッド・コルトーはドビュッシーのピアノ曲を弾き、「おとうさんはもっとよく音を聞いていた」と言われたという。
略歴
- 1862年
- フランスで生まれる
- 1871年
- ピアノを学び始める
- 1872年
- パリ音楽院に入学
- 1875年
- 初めて演奏会に出演
- 1884年
- ローマ大賞受賞
- 1885年
- ローマ大賞の副賞である、ヴィラ・メディチへ留学
- 1888年
- デュポンど同棲を始める
- 1899年
- リリー・テクシュと結婚
- 1905年
- リリーと離婚、エマと同棲する
- 1915年
- 母死去
- 1918年
- 死去